東都紙器工業は昭和36年から現在に至るまで墨田区菊川で事業を営んでおります。
今回は東都紙器工業の成長をずっと見守ってくれている菊川エリアについてご紹介したいと思います。
菊川橋の下を流れる大横川は木場までつながっているため、古くは製材関係の倉庫や貯木場になっていました。
当時、川には貯蔵するためにたくさんの原木が浮いており、周辺には製材所がたくさんありました。
木場公園では10月になると「木場の角乗(かくのり)」を開催しています。木場の角乗とは、材木業者が水に浮かべた材木を鳶口(とびぐち)1つで乗りこなし筏に組む仕事の余技に数々の技術が加わって芸能として発展したものです。
今では川沿いに桜が植えられ、スカイツリーを背景にした道いっぱいの桜を楽しむことができます。
出典:江東住吉整体院ピュアカイロ様ブログ
菊川町周辺は戦前から町工場が多く、加工業が集積して栄えていました。
昭和20年3月10日の東京大空襲では下町の工場地帯であったために、菊川は空襲の標的にされました。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災を教訓に東京の公立学校はコンクリートに建て替えらており、大空襲の際は、戦火を逃れるために多くの人が数少ないコンクリートの建物である菊川小学校(当時菊川国民学校)に逃げ込みましたが、激しい空襲により命を奪われてしまいました。
学校で校舎の建て替えにともない地面を掘り起こしたところ空襲で亡くなった方の人骨が多数みつかったそうです。
出典:菊川小学校HP
東京大空襲の同じ日である昭和58年3月10日に、二度とこのような戦争を繰り返さないようにと菊川小学校の近くに「夢違之地蔵尊」を建立し、毎年慰霊法要を行っています。平和への祈りは子供たちにも受けつがれ、児童もお参りに訪れています。
出典:菊川小学校HP
東京大空襲でもっとも戦禍の大きかったここ菊川町で、東都紙器工業も激動の時代を乗り越えてきました(東都紙器工業の歴史についてはこちらをご覧ください)。
一度、菊川町を訪れてみませんか?